山邑別邸が完成した後、南は遠藤南建築創作所を去り、大正14年に南建築事務所を大阪の堂島ビルに開設した。この年に神戸婦人同情会館が竣工している。
神戸婦人同情会館について
神戸婦人同情会は、大正5年(1916)に、社会事業に生涯を捧げた創立者の城ノブらにより神戸市中山手4丁目で始まった。創立の目的は、当時の劣悪ともいえる社会環境から婦人と子どもを保護し、生活を支援するというものであった。 大正7年に竣工した同市宮本通2丁目の会館に次いで、第2期工事として南信の設計による神戸婦人同情会館は、大正14年(1925)に同市外西灘村原田601番地(現灘区青谷2丁目)に建てられた。請負者は三野芳太郎であった。 南は、大正14年8月1日より「設計図案を立て」、9月20日に定礎式が行われた。「昼夜兼行」の工事により、同年12月31日に神戸婦人同情会館は竣工した。
神戸婦人同情会は、翌大正15年(1926)3月6日に創立満10周年を迎え、青谷本館と呼ばれた「二百余坪ライト式」の会館の献館式が行われた。因みに、翌日の神戸新聞に式典の記事が掲載されている。摩耶山麓の西郷川の西に建つこの建物は、当時の彩色写真から、緑青色の屋根、ベンガラ色の木部と淡い黄色の左官仕上げの外壁であったことが分かる。 平面は南東に開いたL字形で、海(南)側は1階に遊戯室・保育室・食堂などがあり2階は礼拝堂、山(北)側は母子室・育児室・事務室などが配されている。 20年にわたり、多くの婦人と子どもにやすらぎの場として親しまれた南信の設計による神戸婦人同情会館は、昭和20年(1945)6月6日の空襲により焼失し、惜しまれながらその役割を終えた。
芦屋の住宅(その1) 菅野眞湛邸
大正15年(1926)の建築雑誌『新建築』6月号に「住宅行脚記」という連載の「(7)」として、南の設計による「菅野眞湛氏の住宅」が掲載されている。記事によれば、菅野邸は「芦屋の西鉄道線路の下、大字三條」に建っていた。敷地は400坪程で、東と南に道路があり、2階からは南に海が見える。しかし、「それよりも、北の方の六甲の山々を見たい場所である」ことから、2階の東西にはバルコニーが配されている。外観は、瓦棒葺きの屋根や太柱、塔状の煙突、水平線の強調など、一見してライト風のデザインである。また、塀にみられるバックハンドトリムと呼ばれる押し縁飾りは、ライトがプレーリーハウスに用いているデザインの特徴の一つであり、南がライトから受けた影響を物語っている。 この年の冬に、南は事務所を芦屋山坂1537に移転している。
(全て『新建築』大正15年6月号掲載)
神戸の亀高五市邸
亀高五市邸は、神戸市葺合区熊内町に大正14年(1925)に建てられた五市の夫人で美術家の亀高文子のアトリエと地続きの斜面を切り開いて、昭和4年(1929)に南の設計により新築された。 「敷地の高低差が南北に五十尺程あります。殆どカネ勾配の南面した斜面(中略)そうした土地でした。これはいかなライト式でも面くらひます。」という急斜面を切り開き、亀高邸は建てられた。敷地北寄りの地山の出た部分に建てられたこの建物は、床の高さを約5尺(150cm程)の差で4段階としたスキップフロアを特徴としている。玄関、居間と付帯諸室、応接と内玄関、寝室と付帯諸室の順で階が高くなる。屋根は「黄褐釉エス瓦」、外壁は「クリーム色の石目モルタル壁」で、腰張り・敷石・笠木などに大谷石が使用されていた。内外部ともに、ライト風のデザインが色濃いが、屋根のエス瓦は新味のデザインへの芽吹きと見ることもできる。
(全て『新建築』昭和4年4月号掲載)
芦屋の住宅(その2) 岩田三郎邸
岩田邸は、菅野邸と同じ三條の地に昭和5年(1930)に竣工した。山邑邸とは芦屋川を挟んで西に位置していた。南信にとっては、芦屋での3軒目の邸宅の仕事であった。 南に設計が依頼されたのは、大正15年7月である。岩田邸の設計案は、「郊外に建つ家」および「某氏の家」と題して建築雑誌『新建築』の昭和2年8月号と同年11月号に掲載されている。しかし、施工者となる竹中工務店と工事契約を結び、着工されたのは昭和4年7月であった。 着工前年の昭和3年に、南は再び大阪に移転し、大ビルに事務所を構えた。設計依頼から着工までの間に、南は土地と風向の関係の調査を行うなどし、『新建築』掲載の平面図とは異なる実施案により岩田邸は建てられた。
1階が鉄筋コンクリート、2階が木造であったこの建物の外装を概観すると、屋根は急勾配の「丸瓦葺 北陸瓦伊太利式色物」、外壁はほぼ全体がスタッコ「モルタル塗リシン」仕上げで、当時流行していたスパニッシュ系の材料が目立つ。建物中央の六角形の塔屋には「銅板」で葺かれた東洋風の屋根がある。また、玄関上のバルコニーにはスクラッチタイルが、玄関前飾柱、2階の飾り石などに「大谷石」が使用されている。つまり、スパニッシュ、東洋風、ライト風の素材が混在して使用されている。 また、屋根の三角形、片持のバルコニーや塔屋から突出した矩形、2階の半円と矩形のアールデコ風装飾など、幾何学的な立体感を強調したデザインを特徴としており、ヨーロッパのモダニズムの影響がみられる。ライト風のデザインから、南独自の作風への移行を示すものと考えられる。
仁川の自邸―「鹿姑居」
昭和7年に竣工した自邸は、木造で陸屋根の乾式工法で建てられた住宅であった。外壁は、平屋部分・2階部分共に下部が縦羽目板に白いペイント塗装、上部が下見板張りで、以前にはなかった新しい南の外観デザインが自邸で示された。また、室内の壁は下地板の上にふすま紙で仕上げられた。平面図によれば、寝室と書斎がそれぞれ引き違い戸を介して居間に隣接し、寝室と書斎の間も引き違い戸の開口部となって、各部屋が単独あるいは一体として使用可能となっている。また、寝室は畳敷きで、居間と書斎よりも床が1尺高くなっている。これは、遠藤の設計にみられる、座敷と椅子の座姿勢の違いによる視線の高さを近付けるための手法であり、南もこの手法を用いていたことが分かる。南は、しばらくこの自邸で暮らしたものの、昭和9年の春には満州(中国東北部)に渡った。昭和10年にはハルビンにいたが、翌11年に新京(長春)に移り、遠藤南建築創作所で遠藤とともに仕事をした。しかし、昭和18年に結核を患い、療養を続けていたが終戦を迎え、昭和21年11月に病院船で日本に引き揚げてきた。そして、昭和26年(1951)3月20日に仙台で亡くなった。 なお、遠藤新と帝国ホテルの支配人であった林愛作も同年に亡くなっている。
写真・図面・解説文 / 井上 祐一 氏
この記事は2012年にヨドコウ迎賓館旧HPにて掲載されたものです。